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2009年09月

2009.09.01

普遍の暮らし

 現代社会では、普通の暮らしを営むことがものすごく難しくなっているのではないでしょうか。

 

 私のイメージする普通の暮らしとは、学校を卒業して就職し、普通に働き、贅沢を言わなければ普通の一戸建ての家が買えて、子供を大学に行かせることができる暮らしです。

 

 しかし格差社会、ワーキングプアなど、言葉が独り歩きしていますが、普通の暮らしを営む社会的ラインから逸脱してしまう割合が高くなっているようです。

 

 昔の人の大半が、現在の若い世代の非常に頑張っている人と同じくらい頑張っていたことが原因でしょうか。

 簡単に言うと普通の基準が大きく変化し、頑張る基準がどんどん低くなっています

 

 みんなが努力することで形成された社会と、みんながあまり努力しなくなった社会が同じであるはずがありません。

 

 自ら負けないように自己を奮い立たせなくては普通のくらしを営む基準すらクリアできません。

 

 恐ろしいのは若い人たちがそれに気づいていないこと。普通に頑張れば普通の暮らしができる社会が理想ですが、国に不平不満を言っても何も始まりません。

 

  みんなが自分さえよければいいという原理が強く働き、自分の会社さえ生き残ればいいと思っています。お陰様、お役立ちの相互扶助により経済も発展します。

  多くの雇用を創出する中小企業の経営者は、若い人たちにまず「何のために働くのか」「働く姿勢」について再認識させる必要があるのではないでしょうか。

 

未曽有の経済不況の最中だからこそ、急がば回れ・・普通の暮らしはみんなで創るもの。 

 

  小さな実践の積み重ねこそ社会を動かす原動力であると私は信じます

2009.09.01

真言

  仕事をしていて一番うれしいことは、「お客様に自分の真心が通じたとき」です。逆に、仕事をしていて一番哀しいことは、「自分の真心が届かなかったとき」です。

  仕事の経験を積めば積むほど、物事の本質を伝える難しさが増します。未熟であれ、お客様を思う気持ちに決して嘘はありません。

 

 「真心が届かない理由は何であるか・・・」

 

  本質はシンプルなはずですが、それぞれの私心が様々な感情のひだをまとい、物事を複雑にします。自己と他者の対立には必ず私心が介在します。

  神様が与えて下さる問題に、自身の人格の成長が追いついていないのか、それとも語彙の不足、言葉足らずによるものか。言葉が心から唱えられるとしたなら、語彙の不足は心の不足ともいえます。いずれにしろ安易な解決策は存在しません。

 

  あるものを認識しない人にとっては、そのものは実在しないといいます。共通認識が存在しない以上交わることはありません。

 

  「御縁がなかった・・」そんな言葉が脳裏に浮かびます。

しかし縁は決して他力本願のものではないと思います。

 

  学ぶことと年齢を重ねることでしか人は変わることができません。知らないことは恥ではありませんが、知ろうとしないことは恥です。

感謝欠乏症が増幅している社会において、感謝神経を磨くこともその御縁を手繰り寄せる方法の一つではないでしょうか。

 

  自らの苦言を聞き入れていただくには相手に対し誠を持たなくてはなりません。通じないのは、相手の誠が足りないのか、己の誠が足りないのか・・万事足るを知る、相手に誠の不足を責めたてても何の解決にもつながりません。

 

  「万人の奥底には “良知”という善なる心が等しく息づいている」、その言葉を繰り返し、繰り返し、常に自問自答し、真言といえるまで、心を磨くしかありません。

 

  容易でないからこそ、精進する意味が人生にはあるのではないでしょうか。

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