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2017.04.01

清貧の頂きへ

春うらら、大いなる神の遣いたちが冬眠から目覚め、命の芽吹きが私たちを優しく包む今日この頃、気が付けば、清貧を絵に描いたような人々が、次から次へとIdoの門をたたきます。その人たちは、まるで、斧を二つ携え、泉から浮き出てきた仙人のように、私に命題を投げかけます。

 

清貧と言えば、自利を排し、神仏のような人格を目指す境地、宗教家や学者であれば、最上位、敬われる境地かもしれません。しかし、私たちは経営者、自己の充足感だけで終わるわけにはいきません。皆、一様に、一抹の物足りなさをぬぐえず、全体最適、永続的な幸せと、経済合理性の両立のジレンマを強く抱えています。

 

自社の利益を追求するだけで充足できる境涯の経営者からすれば、何に悩んでいるのかさえ分からず、お互いに否定し、歩み寄ることはありません。人として最低のステージは濁貧(濁った貧乏)、その上が濁富(濁ったお金持ち)、更にその上位に来るのが清貧、その清貧の頂きにそびえているのが清富の世界です。自分自身が濁富という砂の城に君臨していることに気づくことができるきっかけは、平等に神様から与えられます。しかし、残念ながら、そのお告げが耳に届く人と届かない人がいます。せっかく耳に届いても、家族の為、従業員の為、お客様の為という、三大私心の雲を払う努力をせず、欺瞞に満ちた毎日を謳歌するうち、そのお告げは聴こえなくなります。

 

せっかく天からのお告げを耳にし、命題を頂いたのであれば、その人生を懸けて、私心の雲を排し、挑戦してみたい!!そう決意した人々が、どうやらIdoの門をたたくようです。私たちはすでに、一人ひとりの「経世済民のものがたり」を演じています。冒険映画のような派手さはないけれど、紛れもない一大スペクタクル映画です。監督も自分、主役も自分、脇役を選ぶのも自分、そして、シナリオを描くのも自分です。

 

Idoに与えられた役割は何か・・・その人々が、良心を羅針盤に、心が折れてしまわないよう、鼓舞するだけでなく、大げさかもしれませんが、知恵の蔵を共に開き、その叡智を集結すること。一人一人は無力でも、一燈が万燈となるよう、共に清富への道を歩むことではないか・・・圧倒的な力不足、役不足は棚に上げて、そんな風に感じている次第です。

 

金儲けの活動は必ず人間を鍛える道場となります。私たちは、志を持って道を求める人々が、決してお金で困らないよう、清貧の頂き、清富の山へ誘うこと。今年、春一番に乗って、そんな神の囁きを耳にしました。お告げを頂いたからには、迷わず歩むべし!まずは、自分自身の特大サイズの私心の雲を必ずや取っ払います!!

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